空きっ腹にたましい

初谷むいのたのしいブログ

こわい短歌特集

夏休みのあなたも、そうでないあなたも、こんにちは。初谷むい(短歌をやっている北海道の大学生)です。この記事では、『こわい短歌特集』ということで、短歌の魅力を『怖い』という観点から味わっていきたいと思います。

 

わたしはかなり怖い話が好きで、(いま、Wordで[怖い話]と打ったところ予測変換に[怖い話機械朗読]と出てきて怖かった……)ちょくちょく2chの「洒落怖」を調べたり、テレビ番組を楽しみにしたりしている。でもそもそも『怖い』という感覚自体はとても苦手で、お化け屋敷では目も開けられない。それでもなぜ『怖い』に魅せられているのかというと、そもそも『怖い』がなぜ起きているのか、『怖い』の発生源はなんなのか、たとえば、『日常的な光景が一瞬で非日常へと変化すること』や『念などの、みえない力を感じること』『「死」を意識すること』なんかが挙げられると思うんだけどどうやらその辺の理由をおもしろいと感じているような気がする。みたいなことを考えながら、先日、書肆侃侃房の短歌ムック『ねむらない樹』を読んでいたら、『新世代がいま届けたい現代短歌100』というコーナーにこんな短歌が掲載されていた。

 

夏の井戸(それから彼と彼女にはしあわせな日はあまりなかった)/我妻俊樹

*1

 

怖い。とても上品な、底の深い恐怖感がある。以前から大好きな歌だったけれど、改めて怖い。そして決意する。怖い短歌の文章を書くことを決める。ということで、まず、この歌から鑑賞していこうと思う。

 

この歌の怖さの原因は、

 

①『夏の井戸』というモチーフ

②登場人物が三人いるということ

③絶妙に嫌な『しあわせな日はあまりなかった』

 

だと個人的には分析する。①についてはわかりやすくて、『井戸』は怖い。さらに、『夏の井戸』はもっと怖い。おそらくわたしたちの共通認識みたいなものとして映画『リング』の貞子が出てくるのは井戸である、ということもあるし、深い水の入った穴、という時点で井戸はめちゃめちゃに怖い。後半については個人的なものかもしれないけれど、夏の井戸は、「そこだけひんやりしてそうな感じ」がして、嫌だ。冬であれば、井戸の特別性は薄れてしまう。日常の穴、としての井戸は、やはり夏がよく似合う。このモチーフがめちゃめちゃ怖い。そのあとの文が()の中にあるのも、視覚的に井戸を覗いているような感じがして、上手い。次に、②について。冒頭で述べた怖さ要因にはなかったのだけど、『理解できないこと』はめちゃめちゃこわいとおもう。こちらの世界のルールでは理解できないつながりでものごとが連鎖することに対する恐怖。歌の中に登場する登場人物は『彼』『彼女』の二人である。彼らには『それから』『しあわせな日はあまりな』い。『夏の井戸』が冒頭に存在するせいで、二人のそれからに、井戸が影響を与えているような気がするのだけど、そんなことは一言も書かれていない。ヒントは『それ』である。それってなんだ。例えば、井戸につなげて考えると、「ふたりで井戸に死体を棄てた」と妄想することもできるし、単純に「ふたりで井戸を覗いてみた」かもしれない。ここで気が付く。登場人物は『彼』『彼女』であり、「ふたり」ではない。

 

それでは、この歌の語り部は誰なのだろう?

 

その人は『それ』を知っている。そして、もしかしたら『彼』も『彼女』も知り得ない、『それから』の原因を知っていることになる。この物語の語り部であるこの人(あるいは『井戸』そのものであるという読みもできる)の存在、そして謎に気づいたとき、背筋がすっと寒くなる。③については、「不幸」ではいけないのだ。『しあわせな日』が『あまりない』このことは、遠くからみたとき「不幸」とかなり似た景色に見えるのだけど、当人たちは、おそらくそのことに気づかない。そこに恐怖が生まれる。いや、不幸ではないのかもしれない。平凡な日常が淡々と続いていく。しあわせであることは少なくなったが、不幸でもない。ふたりはそのことに気づかない。それが怖いのだ。『それ』によってふたりの人生は決定的に変えられた、はずなのに、それに気づかない。どうしようもなく不安になる。絶妙な言葉選びだと思う。

 

ずいぶん熱くなってしまって、逆に怖さが減ってしまったような気がする。『恐怖』には余白が必要なのだ。これからはもうちょっと簡単にいければな、と、わたしは文章を書きながら思っている。

 

次の歌は、もう少し物理的な恐怖だ。

 

ここで水をぜんぶ抜くのね、そ う す る と ! おたまじゃくしは全部死にます/米田一央

*2

 

何が怖いって、『そ う す る と !』に他ならない。テンションが異常なのだ。水を抜き始めて、『そ う す る と !』まで笑っている。ともすれば爆笑である。『のね』という話し言葉もテンションと相まって不気味である。水を抜き終わり、おたまじゃくしが身もだえる。いきものは黒いグネグネになる。それを見つめる主体は、真顔である。急に真顔になる。その落差が、『そ う す る と !』によって生まれる。見事だと思う。もちろん、やっていること自体の残酷さや、『おたまじゃくし』というモチーフの使い方も怖いのだけど。(金魚とかグッピーとかよりも、生き物感が少ない感じが良い。)

 

続いて、人間の「念」についての恐怖だ。先の歌を知ったのは、短歌結社「なんたる星」の2017年8月号の「戦評トーナメント」におよばれしたときで、その時のテーマの一つに「こわい」があった。迂回さんが挙げていたものが先の歌になる。(みなさんが挙げられていた歌を改めて読み直すと、どれもこわい……。末尾にURLを載せるので、ぜひ読んでみてください。)わたしが挙げた歌が、これから挙げるものだ。

 

あえる夜は月がかがやくぼくたちはふたりでひとつの太陽である/イソカツミ

 

*3

 

この歌は、一見すると甘い相聞歌(恋の歌のこと)だが、それだけではない。はじめに、簡単に歌の意味を追っていくけれど、『あえる夜は月がかがやく』⇒なんで?⇒月は太陽のひかりを反射して輝いている⇒つまり『ぼくたちはふたりでひとつの太陽』だったんだ!という感じだろうか。昼間、少なくとも「ぼく」にとっては、いくらほんとうの太陽が照らしていたとしても、暗闇が続いていく。月は見えない。さらに、「あえる夜」があるということは「あえない夜」が日常的に存在している。あえない間、夜は終わらない。

 

そして、怖いのは、このふたりは「夜しか会えない」ことである。

 

太陽はふたつ同時に存在することはできない。ほんとうの太陽が存在する昼間、おそらくふたりは会えないのだ。そしてあえる夜だけひかりは訪れ、まもなく、また深い暗闇が『ぼく』を包む。そのことを『ぼく』は「あなた」に伝えないのだろう。そして屈託なく笑う。深くほの暗い「念」が、平易な言葉で描かれたかわいらしい無邪気な『ぼく』のうしろに見える。こういった効果を歌に見たとき、わたしはたまらなく興奮する。『ぼく』が必死に隠している暗闇が、透けて見えてしまう。これが短歌の面白いところだと思う。

歌単体以外の文脈を持ち込むのはよくないが、余談として、この歌が収録されている(はず)イソカツミさんの歌集『カツミズリズム』は大きなテーマとして「不倫の恋」を扱っているらしい。

この『ぼく』は決してちいさな子供ではない。計算か、いや、おそらくそうなってしまうのだろう無邪気さが、たまらなく切なく、同時に恐ろしい。

 

わたしたちは恐怖に魅せられる。この世ならざるもののパワーや、理屈の通用しない世界を畏怖する。そのことをとても愛おしく思う。

 

最後に、最近読んだ小説、舞城王太郎『淵の王』のはなしを少ししようと思う。『ホラー長編』と銘打たれているが、微妙なニュアンスの問題で、ホラー、よりも、恐怖だな、と思う。同じ意味なんだけど。簡単に内容を説明すると、三つの章にそれぞれ人名が付けられていて、その人を見守る「誰か」の目線で物語が語られる。「誰か」はその人につきっきりである。自我があるが、肉体はない。いわば守護霊的立ち位置にいる。この三人がそれぞれ恐ろしいめにあう、という話である。なるべく話したくない。話したところで読んだ感動がそれを大いに上回ることは絶対そうなんだけど、でもなるべく多く感動してほしいので、多くは説明しないでおくことにする。一か所だけ引用する。

 

怖い想像が悪い影響を持つって、まさしく堀江さんに起こってると思う。/舞城王太郎『淵の王』

 

舞城王太郎作品に「祈り」というキーワードがよく出てくる。祈りは言葉であり、言葉は物語をつくる。わたしはまさにこういうことが大好きで、怖かったのだ、と思う。ある種の祈りが怖いものを生んだり、人を守ったりする。そういうことをじっくり書いている小説である(と、今現在の私は思っている)。未知のエネルギーやテレパシーや、その他もろもろ何かの力、光に触れたいときにおすすめの一冊である。(もちろん恐怖要素もすばらしい。)

 

結局、ホラー、というよりもわたしがだいぶ暑苦しく語ってしまい、怖い感じがなくなってしまった気もするが、この文章が、あなたの短歌ライフをすこしでも盛り上げられたらいいな、と思う。どうかみなさま良い夏を。

 

初谷むい

 

 

なんたる星2017年8月号http://p.booklog.jp/book/116420/read

余談だが、この号に収められている加賀田優子さんの「すこやか」という連作がとても怖い。ぜひ読んでみて下さい。

*1:『率』10号・2016

*2:出典不明です。申し訳ありません……。

*3:注・おそらくTwitterで読み、そこに出典があったはずなのですが、Twitterだけでなくインターネット上で全く見つかりませんでした……。イソカツミさんの短歌ではない、ということはないだろうと思うのですが、もし何かあったらコメントやわたしのTwitter(@h_amui)に教えていただければ幸いです。