読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

空きっ腹にたましい

ほくたん はつたにむい

理屈にならない春のこと

 春になって、学校の都合で海辺の町に引越しをすることになった。新しい家ですべての荷物をほどき終えて、いざ生活を始めてみると、はじめての一人暮らしはなんだかままごとのようでとても楽しい。すこしずつ野菜や肉を買ってきて、小さい冷蔵庫に入れて、ときどきそれを出してこれまた小さい器具で調理をする。学校では海のいきものの勉強をしていて、校舎にはときどき海のほのかな生臭さが風に乗って訪れる。べつにそれは嫌ではなく、わたしはその匂いの中でおにぎりやパンなどをもりもりと食べ、勉強に備える。海辺の町は空が高く、風が強い。そして夕焼けが笑っちゃうほど美しい。ここで暮らしていると、もうずっとこの夕焼けを見ていたような、少し前のことを忘れていくような、へんなきもちになる。歩いて十五分の圏内で大抵のものがそろい、ちくわのようなかたちの石や、ヤンキーになり切れなかった壁の落書き、ときどき鴨に交じってカモメのいる川、ださくてかわいい標語の看板など、くすんだ色のおもちゃ箱の中で生活するような楽しさがある。一日がどんどんちいさくかんたんになって、わたしは上手にそれを消費できる。すべてがあまりにうまくいくものだから、人間ではないようなきもちだ。化粧をしている時だけふと、自分からいきものの匂いがするようでぎょっとする。食べて動いて寝る、という動作の完璧なバランスを知ってしまうことのあやうさ、日々にいつか、溶けてわたしはいなくなってしまうのかもしれないな、なんて思う。たまに海を見に行く。季節的なものなのか、桜の花びらのような貝殻がたくさん落ちている。数枚拾って帰る。枯れないのは、いい、さみしくないから。桃色の貝殻は健康な爪のようでうつくしい。海は風が強くて、あんまり長くはいられない。お尻を汚さないようにすこし海を見て、それからうちへ帰る。ポケットで貝はしゃりしゃりと鳴っている。わたしはそれを、玄関の鍵を入れてある缶の中に貯めていて、暗がりで見るとそれはほんとうに花のようにほのかに光っている。毎日がそのように過ぎてゆくばかりで、たまに遠距離の恋人が連絡をくれ、わたしが元気でいるかどうか確認してくれる。ごはんはちゃんと食べてるし、部屋もとてもきれいだ、と言うとすごく褒められて、すこし複雑なきもちである。でも、やっぱり朝起きられないよ、と付け加えると恋人はなんだかほっとしたようだった。わたしはわたしだっていうことをたまに忘れるのかもしれない。

 

🐚

 

 先日、朝起きると右のわき腹がやけにかゆくて、Tシャツをめくりあげるとそこに桃色の貝殻が張り付いていた。たしかにこの間こんな貝をひろってきたけれど、とそれを爪で掻くとかさぶたをいじるときに似て不快である。きもちがわるくて力ずくでえいっと引きはがすと少しだけ血がにじんだ。意味がわからん。貝殻はおそらくそのとおり貝殻だった。陽に透かすと薄く、白く見える。部屋の日当たりは非常によく、わたしはとても汗をかいていた。きっとだからだろう、変に張り付いていたのは、と納得したはいいものの、それから、学校から帰った時の足の甲、シャワーの時にわきの下など二日に一遍のペースで貝殻が体に張り付いていているようになった。これじゃもしかしたらそのうち人間ではなくて貝になっちゃうのでは、とか考えたりするのだけど、なんだかゆかいなのでまだ放っておいている。恋人に体から出た貝殻の画像を送ると「いいね 拾ったの?」と聞かれ「生えてきた」と返したら「貝って生えるんだっけ?」ととんちんかんなことを言い、ことさらゆかいである。わたしの生活は楽しく、うつくしい。皮膚から生えてきた貝殻は本物に比べやや脆く、すこし力を加えるとパキンとかわいらしい音をたてて割れてしまう。思い立ってかけらを口に含んでみたが味はしなかった。本物の貝とは違い、しばらく舐めているといつの間にか口の中から消えていた。いったいこれはなんなんだろう。学校に持っていって先生の誰かに見せたら、わかるだろうか。いやうーんでもなんか恥ずかしいよなあ、とうじうじしている間にも日々は過ぎ去っていき、わたしはいまだにそれをただ、保管しておくことしかできていない。恋人の「元気か」にも「変わらないよ」と返している。要するにものぐさなのだ。生活が上手でも、ものぐさはものぐさだなあ、と安心する。わたしはどうしたって(たとえこの先貝になったって)どうせわたしであるのだろう。

 

🐚

 

 わたしの家のある戸棚を開けると、ときどき海のにおいがする。家の中でそのにおいがするというのはなんだかちょっと嫌で、その戸棚は普段は使っていないのだけど、わたしは体から剝がした貝殻をそこに置いた瓶の中に貯めている。海の匂いはだんだん濃くなって、わたしは眠る間際、そのにおいを思う。恋人は今月末わたしの部屋に来てくれるらしい。彼がやってきたとき、わたしはそれを見せるだろうか。おそらく見せないんだろうな。内ももがむずむずとする。触ってみるとちいさなしこりがある。明日は早起きの日だ。はやく、ねなくちゃいけない。夕焼けがきれいだったから明日もきっと晴れるのだろう。