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空きっ腹にたましい

ほくたん はつたにむい

はしゃぐ話

海にくれば海での作法に従って つまりははしゃぐ はしゃぐんだよ こらっ

(宇都宮敦)「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」

 

 

生活がかわいい短歌、というととてもあほっぽいけれど、わたしはそういう短歌が好きだ。宇都宮敦さんの短歌を最近知って、きゅんとしまくっている。退屈な生活のまわる感じとか、その日常のほのかなずれを無意識レベルでいとおしく思う、ということがらをとても上手に切り取った短歌が多いように思う。この歌では、直接的な日常を詠んでいるわけではないけれどやっぱり心のふかいところでのいとおしさのようなものが感じられる。

海、というと、普段の生活とは異なる場所に存在するある種の「非日常」的なモチーフとして読まれることが多いように思う。「海にくれば海での作法」と言っている通り、この歌においても海は一見すると非日常であり、しかし、発せられる言葉が舞台とはちぐはぐになっていて、おもしろいなあ、というのが第一印象だった。

この歌の登場人物はふたりで、きっと主体とその恋人である。というのも、大勢で海に来ていてそもそも誰もはしゃがない団体はいないように思うし、その相手に関しては友人や親子であるという読み方もできるけれど、連作全体に主体と「君」(恋人)しか登場人物と言う人物は出てこないということ、そしてこの、どうにもせっかく海に来たのにゆるゆるした感じを見ると付き合って長いカップルのような印象を受けた。ふたりはなぜこんな形で海に来ているのだろう。謎である。非日常に見せかけた海の町の日常なのだろうか。なんとなく、海でも行こうかと海に来てみたもののいつもどおりの二人だったとか。

「海にくれば海での作法にしたがって!」

「え、どうすればいいの」

「なんかあるじゃん、わーって」

「え、なにそれ」

「つまりははしゃぐ!」

「あはは、なにそれ」

「はしゃぐんだよ!!」

「ふーん」

「こらっ」

「あはははは」

要するに書きたかったのはこれなのだけれど、こんな退屈でくだらないしかしどうしようもなく愛しい時間を短歌にすることはもうどうしよう、どきどきするしすごいことだと思う。つまりこれも、例に漏れず生活の歌だったのだ。わたしはこの短歌は上記のように、全体が会話の、主体側の発言であると読んだのだけど、こらっ、なんて本当に怒っている人はもちろん使わないし、というかそもそもこの会話自体、ちょっとはしゃいでないか?ぜったいじゃれてる。ほんとうにくだらないよ~でも意外とずうっと時がたった後だと、覚えているのはこういう瞬間だったりするからふしぎだし、生きるのはおもしろくてかわいいなっておもうのだ。