空きっ腹にたましい

初谷むいのたのしいブログ

ねむるあなたの短歌特集

こんにちは。初谷むい(短歌が好きな北海道の大学生)です。9月になって、秋がきてうれしいけど、北海道は夏の間もわりとずーっとすずしくって、なんだかものたりないな、とも思っています。

 台風の夜で眠れない。から文章を書き始める。そもそも、秋ってなんだか眠れない。眠れない夜はこわい。でも、そんなときにぴったりな素敵な相聞歌(広く恋の歌のことを、相聞歌(そうもんか)といいます)を今回は読んでいくことにする。

 

(ちなみに、前回の『こわい短歌特集』で触れ損ねたのだけど、あくまでわたしの読み方はわたしの読み方で、みんなで読み方を見せ合って楽しめるのが短歌のいいところで、わたしの読みが「正解」というわけではない。そういうふうに読めるのか〜と楽しんでいただけたら幸いです。)

 

まずはじめに、『眠る』ということについて考えていこうと思う。『眠る』って、何が起こっているのだろう。目を閉じて横になって、言葉も通じなくなってしまう。眠っている間、わたしたちはわたしたち自身のことも忘れてしまう。夢を見ている。
なんとなく、別世界へいくことのような感じもするし、姿に関しても、『眠るように死ぬ』という言葉があるように「死んでいること」と近いようにも思える。

そんなわけで、今回のテーマは、『ねむるあなたの短歌』である。眠りは、そのひとがどんなに近しい存在であっても断絶を生む。ねむるあなたを眺める時、わたしは途方もなくひとりぼっちだ。生きている人が自分しかいないような錯覚。このとき、世界は 生者・死者⇆わたし・あなたに収束される。 結果的に、わたしたちは世界からとりのこされる。

 

はじめは、ねむる誰かが隣にいる空気感がとても伝わる一首である。

 

満月じゃないけど月がきれいだな、なんて書き込む 君は寝ている/堂那灼風

*1


月というモチーフをかなり上手く使っている歌である。かの有名な夏目漱石の逸話、「月が綺麗ですね」を読者に想起させながら、しかし、くどくなくかつ切なく日常が描かれている。『満月じゃないけど月がきれいだな』はかなり素朴な気づきであり、その要因として『が』という助詞の使い方がうまいことがひとつ挙げられる。このひとは、このときにきちんとそこにある月を見て『きれいだな』と思っていたのだろう。例えば『が』を「は」に変えると、「その瞬間の月」感はかなり薄れてしまうのだ。
『書き込む』というのはおそらく、この感じからして手軽なSNSツイッターが近いのではないかと思う。夜のツイッターは孤独な空間だ。昼間はびゅんびゅん過ぎ去ってゆくタイムラインの動きがゆるやかになって、自分の「つぶやき」はだんだん本物の独り言に近づいてゆく。

ここからやっと「ねむるあなた」の話になる。

最後、唐突に『君』が登場する。君は寝ている。この流れでいきなり登場する、しかしその必然性にしびれてしまう。月を見るこのひとの隣、寝息を感じられるくらい近くに『君』はいる。『君』は眠り、このひとは起きて、月を見ている。
このとき、「ふたりの世界は完璧に異なっている」ように感じる。なんとなくこの歌の中で、こんなに近くにいる『君』はとても遠い存在であるかのように感じて、そしてそれはたぶん、『月』のイメージがそのまま投影されるからではないだろうか。このひとにとって、『君』はいま見ている月のようなひとで、完璧ではないけれどとても大切に思っている。この『満月ではない』月を見て、その瞬間に『きれいだな』と思ったように、寝息を立てる「君」を見て、大切だ、とあらためて気づく。

しかし、切ないのが、『君』に月のイメージが重なることで、どうしても「届かない」感覚になる点だ。月に手は届かない。誰よりその美しさを知っていたとしても。
それらの印象が、「夜」というモチーフと響き合うことで歌全体に漂う絶対的な孤独。さみしさ、よりも孤独、という感じがする。
このひとはいま、孤独だ、ということに気づいてないのかもしれない、と思わされる。でも、頭を超えたどこかでそれを理解していて、だからこそツイッターにつぶやいたのだ。一見相聞歌のように見えるけれど、そして、切実に相聞歌であるのだけど、仄暗い孤独の香りがたまらなく良い一首だ。

 

話が脱線するのだけど、短歌を読んでるときにたまに「ゾーン」に入ることがある。わたしの中で歌がぐにぐにと動き、想いの形を伝えてくる。きたきたきた!と思って喋り・書きはじめる。いつもではないけれど、カチッとすべての仕組みが見えて興奮してしまうことがある。この評の原型はだいたい一年前にわたしのツイッターで書かれていて、すっかり忘れていたのだが、そうなってるのがわかっておもしろかった。ゾーンにははじめからなれたわけではなくて、「読めね〜〜」の世界の中であるとき急にこんな風に読めてしまう日が来たはずだ。もちろん何度も言うが正解を出しているわけではない。しかし、自分の好きな短歌の、自分にとっての正解としての「読み」が炸裂する気持ちよさが、短歌にあまり馴染みのない人にも伝えられたら、その中にそう言うの待ってた!という人がいたらいいな、と思っている。そもそも、わたしが人の評がすごくおもしろくて、短歌をもっと好きになったという経緯があるから。わたしももっと読めるようになりたい。全然足りない。たぶんもっとすごい世界があるはずなのだ。

 

話を戻そう。次の歌は、光景を想像しながら読んでみてほしい。

 

まだ君は眠ってるだろう
静けさの
自転車置き場は海に似ている
/土谷映里

 *2


あなたはこの歌を読んで、どの時間帯が舞台だと思っただろうか。ほぼ間違いなく朝だと思う。それではどうしてそう思ったのだろう。読み返してみても、この歌には「朝」なんて一言も書いていないのに。
この歌でわたしがガツンと感銘を受けたところは、一番はじめの『まだ』である。『まだ』。この二文字だけで、舞台は鮮やかに明け方に変わる。
このひとは、明け方の自転車置き場で、『君』のことを考えている。今はまだ朝早いから、眠っているだろう。自転車置き場はひとけなくしいんと静まり返っていて、まるで海のように思える。それだけといえば、それだけで、何も起きてはいない。しかしものすごく格好いい歌だ。まずその情報量を短歌の枠できっちり納めていることがすごいし、『静けさの』を『静けさの』にしたことがすごすぎる。ここが、たとえば、『明け方の』だったとすると、その瞬間にこの短歌のはりつめた美しさは崩壊する。『まだ』がある以上朝であることはこれ以上言ってはいけないのだ。無駄は短歌では基本的にかなりダサい。
さらに、『静けさの』にしたことによって、視界から人が消える。するとどうなるか。そう、眠ってる『君』の輪郭がもう一度匂い立つのである。しびれる……。
そして、やはり、このひとも、この静かな海に『君』とふたりで世界から取り残されるのだ。もうどちらが起きているのか、生きているのかわからなくなってくる。
誰もいない自転車置き場って、海みたい。というそれだけでかなり詩的に優れた発見を、暴力のように美しい定型にまとめあげた一首である。

 

最後に取り上げるのは、悲しくなるほど美しいワンシーンを描いた歌だ。

 

喉ぼとけ、雪の稜線みたい ねえ、起きて もう目覚めないと云って/森笛紗あや

*3


「わたし」は仰向けに眠る「あなた」の白く隆起した喉仏を見つめる。まるで雪ふる山の稜線(尾根)のようだ。ふと、ある言葉を「あなた」に告げる。
はじめの『雪』によって、読者である我々の視界が真っ白に霞んでしまうのがすごい。白く眩しいベールのかかったような空間で、神のお告げのように「わたし」の言葉がひびく。

でもこの言葉は妙だ。現実世界では辻褄が合わない。起きてしまったら、もう目覚めないなんて言えるわけないのだ。
おそらく、実際には、この言葉を口に出したわけではなく、これは祈りに限りなく近いものなのだろう。起きて、わたしに言ってほしい。もう目覚めないで、ずっとここにいるということ。いつかわたしのことを忘れてしまうことを、そんなことないって、言ってほしい。細かい内容はたぶん読み取れない。上記はわたしの想像である。余白はゆるやかに読者に手渡される。
あるいは、そもそも、「わたし」が夢の世界にいるということも考えられる。夢の中で「あなた」が眠っている。あなたは今どこにいるのだろう。それはわたしにはわからない。いま、起きて、わたしの世界に来てほしい。あなたがいれば、夢なんてずっと覚めなくたっていい。あなたがここにいてほしい。
いずれにせよ、「ここにこのままいる」ということを「わたし」は、起きている(つまり、あなたの意思で)「あなた」に言ってほしい。しかし、目覚めないまま、もう目覚めない、と言うことは現実では叶わない。あまりに矛盾している。あなたはいずれ目覚めてしまう。眠り続けることはできない。ここにこのままのふたりでいることも、できない。あまりに切実な、そしてそれが叶わないからこそどうしようもなく美しい、祈りの歌である。

 


『ねむるあなたの短歌特集』、楽しんでいただけただろうか。テイストの違う三首だったけれど、どれもがねむるあなたをトリガーとして別の世界の扉が開かれていた。1つ目は孤独の扉、2つ目はふたりぼっちの扉、そして3つ目は、祈りの扉。大切なひとは、そこに存在するだけで、この地球のどこかで眠ってくれているだけで、違う世界の扉を開ける鍵なのかもしれない。
ねむる、というのはとても不思議な現象で、そのときわたしたちには意志の力ははたらかない。生きているけれど、ただの肉の塊といえばそれまでの存在になる。だけど、そのときわたしたちはたしかにわたしたちで、わたしたちもきっと誰かにとっての鍵なのだろう。

 

それではまた。秋はさみしいけれど、なんとかがんばりましょう。みなさまがすこやかにねむる夜をお祈りしています。

 

初谷むい

*1:堂那灼風さんTwitter

*2:第10回全国高校生短歌大会 優秀作品賞

*3:『BUGS1』・2016

こわい短歌特集

夏休みのあなたも、そうでないあなたも、こんにちは。初谷むい(短歌をやっている北海道の大学生)です。この記事では、『こわい短歌特集』ということで、短歌の魅力を『怖い』という観点から味わっていきたいと思います。

 

わたしはかなり怖い話が好きで、(いま、Wordで[怖い話]と打ったところ予測変換に[怖い話機械朗読]と出てきて怖かった……)ちょくちょく2chの「洒落怖」を調べたり、テレビ番組を楽しみにしたりしている。でもそもそも『怖い』という感覚自体はとても苦手で、お化け屋敷では目も開けられない。それでもなぜ『怖い』に魅せられているのかというと、そもそも『怖い』がなぜ起きているのか、『怖い』の発生源はなんなのか、たとえば、『日常的な光景が一瞬で非日常へと変化すること』や『念などの、みえない力を感じること』『「死」を意識すること』なんかが挙げられると思うんだけどどうやらその辺の理由をおもしろいと感じているような気がする。みたいなことを考えながら、先日、書肆侃侃房の短歌ムック『ねむらない樹』を読んでいたら、『新世代がいま届けたい現代短歌100』というコーナーにこんな短歌が掲載されていた。

 

夏の井戸(それから彼と彼女にはしあわせな日はあまりなかった)/我妻俊樹

*1

 

怖い。とても上品な、底の深い恐怖感がある。以前から大好きな歌だったけれど、改めて怖い。そして決意する。怖い短歌の文章を書くことを決める。ということで、まず、この歌から鑑賞していこうと思う。

 

この歌の怖さの原因は、

 

①『夏の井戸』というモチーフ

②登場人物が三人いるということ

③絶妙に嫌な『しあわせな日はあまりなかった』

 

だと個人的には分析する。①についてはわかりやすくて、『井戸』は怖い。さらに、『夏の井戸』はもっと怖い。おそらくわたしたちの共通認識みたいなものとして映画『リング』の貞子が出てくるのは井戸である、ということもあるし、深い水の入った穴、という時点で井戸はめちゃめちゃに怖い。後半については個人的なものかもしれないけれど、夏の井戸は、「そこだけひんやりしてそうな感じ」がして、嫌だ。冬であれば、井戸の特別性は薄れてしまう。日常の穴、としての井戸は、やはり夏がよく似合う。このモチーフがめちゃめちゃ怖い。そのあとの文が()の中にあるのも、視覚的に井戸を覗いているような感じがして、上手い。次に、②について。冒頭で述べた怖さ要因にはなかったのだけど、『理解できないこと』はめちゃめちゃこわいとおもう。こちらの世界のルールでは理解できないつながりでものごとが連鎖することに対する恐怖。歌の中に登場する登場人物は『彼』『彼女』の二人である。彼らには『それから』『しあわせな日はあまりな』い。『夏の井戸』が冒頭に存在するせいで、二人のそれからに、井戸が影響を与えているような気がするのだけど、そんなことは一言も書かれていない。ヒントは『それ』である。それってなんだ。例えば、井戸につなげて考えると、「ふたりで井戸に死体を棄てた」と妄想することもできるし、単純に「ふたりで井戸を覗いてみた」かもしれない。ここで気が付く。登場人物は『彼』『彼女』であり、「ふたり」ではない。

 

それでは、この歌の語り部は誰なのだろう?

 

その人は『それ』を知っている。そして、もしかしたら『彼』も『彼女』も知り得ない、『それから』の原因を知っていることになる。この物語の語り部であるこの人(あるいは『井戸』そのものであるという読みもできる)の存在、そして謎に気づいたとき、背筋がすっと寒くなる。③については、「不幸」ではいけないのだ。『しあわせな日』が『あまりない』このことは、遠くからみたとき「不幸」とかなり似た景色に見えるのだけど、当人たちは、おそらくそのことに気づかない。そこに恐怖が生まれる。いや、不幸ではないのかもしれない。平凡な日常が淡々と続いていく。しあわせであることは少なくなったが、不幸でもない。ふたりはそのことに気づかない。それが怖いのだ。『それ』によってふたりの人生は決定的に変えられた、はずなのに、それに気づかない。どうしようもなく不安になる。絶妙な言葉選びだと思う。

 

ずいぶん熱くなってしまって、逆に怖さが減ってしまったような気がする。『恐怖』には余白が必要なのだ。これからはもうちょっと簡単にいければな、と、わたしは文章を書きながら思っている。

 

次の歌は、もう少し物理的な恐怖だ。

 

ここで水をぜんぶ抜くのね、そ う す る と ! おたまじゃくしは全部死にます/米田一央

*2

 

何が怖いって、『そ う す る と !』に他ならない。テンションが異常なのだ。水を抜き始めて、『そ う す る と !』まで笑っている。ともすれば爆笑である。『のね』という話し言葉もテンションと相まって不気味である。水を抜き終わり、おたまじゃくしが身もだえる。いきものは黒いグネグネになる。それを見つめる主体は、真顔である。急に真顔になる。その落差が、『そ う す る と !』によって生まれる。見事だと思う。もちろん、やっていること自体の残酷さや、『おたまじゃくし』というモチーフの使い方も怖いのだけど。(金魚とかグッピーとかよりも、生き物感が少ない感じが良い。)

 

続いて、人間の「念」についての恐怖だ。先の歌を知ったのは、短歌結社「なんたる星」の2017年8月号の「戦評トーナメント」におよばれしたときで、その時のテーマの一つに「こわい」があった。迂回さんが挙げていたものが先の歌になる。(みなさんが挙げられていた歌を改めて読み直すと、どれもこわい……。末尾にURLを載せるので、ぜひ読んでみてください。)わたしが挙げた歌が、これから挙げるものだ。

 

あえる夜は月がかがやくぼくたちはふたりでひとつの太陽である/イソカツミ

 

*3

 

この歌は、一見すると甘い相聞歌(恋の歌のこと)だが、それだけではない。はじめに、簡単に歌の意味を追っていくけれど、『あえる夜は月がかがやく』⇒なんで?⇒月は太陽のひかりを反射して輝いている⇒つまり『ぼくたちはふたりでひとつの太陽』だったんだ!という感じだろうか。昼間、少なくとも「ぼく」にとっては、いくらほんとうの太陽が照らしていたとしても、暗闇が続いていく。月は見えない。さらに、「あえる夜」があるということは「あえない夜」が日常的に存在している。あえない間、夜は終わらない。

 

そして、怖いのは、このふたりは「夜しか会えない」ことである。

 

太陽はふたつ同時に存在することはできない。ほんとうの太陽が存在する昼間、おそらくふたりは会えないのだ。そしてあえる夜だけひかりは訪れ、まもなく、また深い暗闇が『ぼく』を包む。そのことを『ぼく』は「あなた」に伝えないのだろう。そして屈託なく笑う。深くほの暗い「念」が、平易な言葉で描かれたかわいらしい無邪気な『ぼく』のうしろに見える。こういった効果を歌に見たとき、わたしはたまらなく興奮する。『ぼく』が必死に隠している暗闇が、透けて見えてしまう。これが短歌の面白いところだと思う。

歌単体以外の文脈を持ち込むのはよくないが、余談として、この歌が収録されている(はず)イソカツミさんの歌集『カツミズリズム』は大きなテーマとして「不倫の恋」を扱っているらしい。

この『ぼく』は決してちいさな子供ではない。計算か、いや、おそらくそうなってしまうのだろう無邪気さが、たまらなく切なく、同時に恐ろしい。

 

わたしたちは恐怖に魅せられる。この世ならざるもののパワーや、理屈の通用しない世界を畏怖する。そのことをとても愛おしく思う。

 

最後に、最近読んだ小説、舞城王太郎『淵の王』のはなしを少ししようと思う。『ホラー長編』と銘打たれているが、微妙なニュアンスの問題で、ホラー、よりも、恐怖だな、と思う。同じ意味なんだけど。簡単に内容を説明すると、三つの章にそれぞれ人名が付けられていて、その人を見守る「誰か」の目線で物語が語られる。「誰か」はその人につきっきりである。自我があるが、肉体はない。いわば守護霊的立ち位置にいる。この三人がそれぞれ恐ろしいめにあう、という話である。なるべく話したくない。話したところで読んだ感動がそれを大いに上回ることは絶対そうなんだけど、でもなるべく多く感動してほしいので、多くは説明しないでおくことにする。一か所だけ引用する。

 

怖い想像が悪い影響を持つって、まさしく堀江さんに起こってると思う。/舞城王太郎『淵の王』

 

舞城王太郎作品に「祈り」というキーワードがよく出てくる。祈りは言葉であり、言葉は物語をつくる。わたしはまさにこういうことが大好きで、怖かったのだ、と思う。ある種の祈りが怖いものを生んだり、人を守ったりする。そういうことをじっくり書いている小説である(と、今現在の私は思っている)。未知のエネルギーやテレパシーや、その他もろもろ何かの力、光に触れたいときにおすすめの一冊である。(もちろん恐怖要素もすばらしい。)

 

結局、ホラー、というよりもわたしがだいぶ暑苦しく語ってしまい、怖い感じがなくなってしまった気もするが、この文章が、あなたの短歌ライフをすこしでも盛り上げられたらいいな、と思う。どうかみなさま良い夏を。

 

初谷むい

 

 

なんたる星2017年8月号http://p.booklog.jp/book/116420/read

余談だが、この号に収められている加賀田優子さんの「すこやか」という連作がとても怖い。ぜひ読んでみて下さい。

*1:『率』10号・2016

*2:出典不明です。申し訳ありません……。

*3:注・おそらくTwitterで読み、そこに出典があったはずなのですが、Twitterだけでなくインターネット上で全く見つかりませんでした……。イソカツミさんの短歌ではない、ということはないだろうと思うのですが、もし何かあったらコメントやわたしのTwitter(@h_amui)に教えていただければ幸いです。

ナイス害「フラッシュバックに勝つる」の話

ナイス害さんの私家版の歌集、「フラッシュバックに勝つる」を読みました。
ナイス害さんは「なんたる星」メンバーでおなじみの歌人であり、飄々としていてどこか掴めないような印象のある彼が、どこまでも真剣に戦っているのがこの、「フラッシュバックに勝つる」だと思う。装幀デザインがまずとても素敵で、はらだ有彩さんのイラストがよい。あとがきで、歌集のコンセプトのキッカケやヒントをくれたのがはらださんだ、という記載があるように、この装幀はこの歌集のためにあるものなのだろう。読後に再度表紙を眺めると、なお、この歌集と響き合っていることがわかって、涙が出そうになる。カラフルで軽やかで、ちょっとせつない、「ナイス害」という歌人のことをたくさん考えることができる、とても良い歌集だったと思います。また、雪舟えまさんによる解説もご本人のあとがきも、この歌集を読み解く上でのおおきな手掛かりとなる、良いものでした。わたしは今まで、「ナイス害」ってだれなんだ!??とずっと思っていて、というのも、作品を呼んでも、おどけて笑う姿のその先が見えなかったから。なんだかおもしろいしすごそうだけれど、この人はいったい誰なんだろう。その答えの1つが、この歌集なのだろうと思います。

 

君に蠅が止まって俺にもその蠅が止まって抱き合う 蠅が逃げない

木のスプーン戸棚の奥から取り出して幸せに目がくらむちゃうだぁ

プロポーズふざけてされたもんだからあれからずっと空洞でした

どうしよう君は1000%だし指から唐揚げ出るのズルいよ 

 

総評的な感想はこのへんにして、わたしなりの、「ナイス害」の姿、もといこの歌集のすごさについて考えていく。

この歌集は、いくつかの連作で構成されているが、明確な章分けはなく、読んでいてもどこかで時間や空間が変わるなどのことは感じられない。作風としては、「現実に基づいていると考えられるが、かなりイメージ寄りの世界」を描いたもので、現実に存在する生物や食べ物や場所、その他ありとあらゆることが、この歌集の中では踊り狂い、ふしぎな顔や冗談で笑わせてくる。でもどこか、それらの姿はさみしげに、わたしたちの目に映ることがあって、それの原因はおそらく「この世界が実際には存在しない」ということが、作者にわかっているからなのではないか、と思う。それらには時間も空間もはなから「存在しない」のではないだろうか。

この歌集で起こるすべての事象は別のある惑星での出来事で、それはすなわち「記憶」の世界であると考えることができる。いま、実際にはそこにない、かつてあったこと、かつていた人、それらの記憶を種として、わらわらと這い出してくるさまざまな「思い出達」の姿をこの惑星では観察することができる。

 

だれにでも耳が生えててかわいくて足も生えてて駆け寄ってくる

昼のイオンフードコートに迷い込んだ鳥が少し主役になれたこと

なんと俺、短い名前がだいすきで「手」と名乗る女の胸を揉む

序盤では絶対倒せぬドラゴンと戦うような廊下のラブホ

 
ウケるね、と笑う声が聞こえてきそうなこの情景が、歌集全体を通して見たときにどことなくせつないのは、先に述べたようにこれらが「記憶」であり、現実にはもう届かない「過去」であるからなのだろう。過去であるからこそ、その状況はより精密に茶化され、どんどん独自の成長を遂げる。たとえば、かなり特徴的なのが性を読んだ歌で、なんだかよくわからないけれど不思議と下品ではない。わたしたちの性すらも、この惑星では愉快な部品へと変換されていくのである。

 

体温を足して72℃弱の冴えない冴えない火傷をしよう

「風ってさ、風ってセックスしてるよね」太鼓の音が踵を返す

ひとつだけお願い言っていいですかスローモーションで果ててください

本日のスタメン発表します。腕、足、腰、ちんちん、ちんちん四番

 
しかし時折、ふと我に帰るような、リアルな歌も混ざっている。すべては過去の夢で、この惑星はわたしの記憶で、じゃあわたしは、どこへ行けるのだろう。その問いかけともいえるような、胸が締め付けられるような歌から、この歌集のひとつのテーマが、「喪失」であることが明らかになっていく。

 

笑いながらフェラチオしてる君の目にうつるすべてを忘れたくない

A3をどうにか折ってB4にするかのような別れ話だ

さよならを知ってる人はさよならを告げる仕草が上品でした

笑ってね 腕からクラッカーのように飛び出す猫でしたー、うん、猫でした

 

笑ったって苦しいものは苦しい。記憶には力があって、それはときどき勝手にゆらゆら動き、わたしたちのまわりで踊り始める。それはとてもおかしな踊りで、だからこそ胸が痛む。ほんとうに悲しいことは笑って話すしかなくて、それはとても、しょうがなく尊いことだと思う。

 

ここからがわたしなりの「フラッシュバックに勝つる」に対する結論なのだけれど、この歌集のすごいところはその記憶の先を作者が見ているところだと思う。記憶の先とは、現在であり未来であり、さらにこの歌集の中で作者は、それらのまだ見ぬ世界に対して「希望を語っている」。

過去を語るとき、人は少なからず諦めの気持ちを持つ。過去は、今の自分には、もうどうしようもないことで、変えようがなくて、うれしかったことも、そして悲しかったことも、何度も何度もフラッシュバックとして頭の中に訪れる。しかしながら、「喪失」が大きな題材として選ばれているこの歌集を読んだ後、わたしたちの胸に残るのはあたたかな希望で、それは本当に驚くべきことだ。

 

入り込む君の悪夢に入り込むなんだ楽園じゃないか今日も

逃げなさい思い出達よ逃げなさい素敵な人が現れたのよ

幽霊の気分で橋の欄干に立てば今夜もキャラメルの風

庭先で四季折々の幸せに語りかけてるようなきみの手

 

ことばに、未来に、希望を託す。「喪失」がテーマの作品群において、それを成し遂げるために必要なことは、「過去の尊さを信じる」ことのように感じる。ものごとの、記憶の、「君」だった誰かの、そして自分自身の尊さを信じる。「フラッシュバックに勝つる」ために、過去をふりはらうのではなく、あたたかく逃がす、または、自分自身へふたたび取り込む、という手法をとったのが「ナイス害」という歌人なのだろうと思う。

 

わたしたちにはかしこい頭があり、大事だった何かやだれかがそこにずっと住んでいる。その記憶にわらわら襲われて、どうしようもない夜がある。記憶を憎んでしまうことも、ときどきある。でも、この歌集において、「フラッシュバック」はやっぱりおもしろくてうつくしくて、そしてそれにわたしたちがとらわれる必要は絶対にない、と教えてくれる。あとがきで、作者であるナイス害は「白々しい希望」ということばを使っていたけれど、わたし個人としては、彼は実際に希望を見ていたが、それに気付いていなかったのではないか、と考えている。その点で、この歌集には非常に意義があって、おそらくナイス害は、この歌集の製作を通して、自身が見ていたフラッシュバックの惑星の、そしてそれに「勝つる」希望の、存在に気づいた。わたしは、誰かが何かを作ることの希望は、こういうことにあると感じていて、だからそのことが、涙が出るくらいうれしいことだった。そういう意味で、この歌集は非常に成功している歌集だと言えるだろう。「フラッシュバックに勝つる」以後のナイス害をずっと追っていたくなるような歌集だった。害さん、あたたかな希望をありがとうございます。お会いできる日を楽しみにしています!というきもちになった、というところで、この文を締めたいと思う。ありがとうフラッシュバック!勝っていくよ!!!

 

束の間の思い出達よ星雲を消す真似をしようよ笑えるように

 

理屈にならない春のこと

 春になって、学校の都合で海辺の町に引越しをすることになった。新しい家ですべての荷物をほどき終えて、いざ生活を始めてみると、はじめての一人暮らしはなんだかままごとのようでとても楽しい。すこしずつ野菜や肉を買ってきて、小さい冷蔵庫に入れて、ときどきそれを出してこれまた小さい器具で調理をする。学校では海のいきものの勉強をしていて、校舎にはときどき海のほのかな生臭さが風に乗って訪れる。べつにそれは嫌ではなく、わたしはその匂いの中でおにぎりやパンなどをもりもりと食べ、勉強に備える。海辺の町は空が高く、風が強い。そして夕焼けが笑っちゃうほど美しい。ここで暮らしていると、もうずっとこの夕焼けを見ていたような、少し前のことを忘れていくような、へんなきもちになる。歩いて十五分の圏内で大抵のものがそろい、ちくわのようなかたちの石や、ヤンキーになり切れなかった壁の落書き、ときどき鴨に交じってカモメのいる川、ださくてかわいい標語の看板など、くすんだ色のおもちゃ箱の中で生活するような楽しさがある。一日がどんどんちいさくかんたんになって、わたしは上手にそれを消費できる。すべてがあまりにうまくいくものだから、人間ではないようなきもちだ。化粧をしている時だけふと、自分からいきものの匂いがするようでぎょっとする。食べて動いて寝る、という動作の完璧なバランスを知ってしまうことのあやうさ、日々にいつか、溶けてわたしはいなくなってしまうのかもしれないな、なんて思う。たまに海を見に行く。季節的なものなのか、桜の花びらのような貝殻がたくさん落ちている。数枚拾って帰る。枯れないのは、いい、さみしくないから。桃色の貝殻は健康な爪のようでうつくしい。海は風が強くて、あんまり長くはいられない。お尻を汚さないようにすこし海を見て、それからうちへ帰る。ポケットで貝はしゃりしゃりと鳴っている。わたしはそれを、玄関の鍵を入れてある缶の中に貯めていて、暗がりで見るとそれはほんとうに花のようにほのかに光っている。毎日がそのように過ぎてゆくばかりで、たまに遠距離の恋人が連絡をくれ、わたしが元気でいるかどうか確認してくれる。ごはんはちゃんと食べてるし、部屋もとてもきれいだ、と言うとすごく褒められて、すこし複雑なきもちである。でも、やっぱり朝起きられないよ、と付け加えると恋人はなんだかほっとしたようだった。わたしはわたしだっていうことをたまに忘れるのかもしれない。

 

🐚

 

 先日、朝起きると右のわき腹がやけにかゆくて、Tシャツをめくりあげるとそこに桃色の貝殻が張り付いていた。たしかにこの間こんな貝をひろってきたけれど、とそれを爪で掻くとかさぶたをいじるときに似て不快である。きもちがわるくて力ずくでえいっと引きはがすと少しだけ血がにじんだ。意味がわからん。貝殻はおそらくそのとおり貝殻だった。陽に透かすと薄く、白く見える。部屋の日当たりは非常によく、わたしはとても汗をかいていた。きっとだからだろう、変に張り付いていたのは、と納得したはいいものの、それから、学校から帰った時の足の甲、シャワーの時にわきの下など二日に一遍のペースで貝殻が体に張り付いていているようになった。これじゃもしかしたらそのうち人間ではなくて貝になっちゃうのでは、とか考えたりするのだけど、なんだかゆかいなのでまだ放っておいている。恋人に体から出た貝殻の画像を送ると「いいね 拾ったの?」と聞かれ「生えてきた」と返したら「貝って生えるんだっけ?」ととんちんかんなことを言い、ことさらゆかいである。わたしの生活は楽しく、うつくしい。皮膚から生えてきた貝殻は本物に比べやや脆く、すこし力を加えるとパキンとかわいらしい音をたてて割れてしまう。思い立ってかけらを口に含んでみたが味はしなかった。本物の貝とは違い、しばらく舐めているといつの間にか口の中から消えていた。いったいこれはなんなんだろう。学校に持っていって先生の誰かに見せたら、わかるだろうか。いやうーんでもなんか恥ずかしいよなあ、とうじうじしている間にも日々は過ぎ去っていき、わたしはいまだにそれをただ、保管しておくことしかできていない。恋人の「元気か」にも「変わらないよ」と返している。要するにものぐさなのだ。生活が上手でも、ものぐさはものぐさだなあ、と安心する。わたしはどうしたって(たとえこの先貝になったって)どうせわたしであるのだろう。

 

🐚

 

 わたしの家のある戸棚を開けると、ときどき海のにおいがする。家の中でそのにおいがするというのはなんだかちょっと嫌で、その戸棚は普段は使っていないのだけど、わたしは体から剝がした貝殻をそこに置いた瓶の中に貯めている。海の匂いはだんだん濃くなって、わたしは眠る間際、そのにおいを思う。恋人は今月末わたしの部屋に来てくれるらしい。彼がやってきたとき、わたしはそれを見せるだろうか。おそらく見せないんだろうな。内ももがむずむずとする。触ってみるとちいさなしこりがある。明日は早起きの日だ。はやく、ねなくちゃいけない。夕焼けがきれいだったから明日もきっと晴れるのだろう。

きのこの刺繍

さだめがきのこの刺繍しか食べられない女の子だって知ってからも、僕はさだめのことが好きだった。さだめは大学二年の春に今まで好きだった牡蠣のアヒージョも肉巻きアスパラもスイカもナタデココも塩パンもぶどうゼリーも全部食べられなくなって、代わりにきのこの刺繍を一生懸命噛むようになった。さだめと付き合ったのは三年生の夏だから、かれのれ一年以上きのこの刺繍で生活をしてきたきのこの刺繍の栄養だけで身体のほとんどができているさだめを僕は好きになったわけだ。きのこの刺繍はなんでもいい、ただそれがきのこに見え、そして刺繍だったら良いのだ。さだめはもはやきのこの刺繍以外のものを口に含むと全身から桃色の、おそらく血が混じった汗が吹き出し、二、三日は安静にしていなければいけない体で、付き合い始めた頃僕があげたミルクキャンディーを無理して食べるものだからミルクキャンディーは勢いよくさだめの口から発射され僕の左目を貫いた。左目は失明したが当たりどころが良かったので僕は生きている。これに関してはさだめは悪くない。悪いのかもしれないけれど僕にそれを罰する権利はない、さだめはぼくに嫌われないために一生懸命だっただけなのだ。僕はさだめのために毎晩大学が終わったらきのこの刺繍をする。なるべく美味しく楽しく食べて欲しくて、きのこ図鑑の中で色合いの美しいものを選んで作っている(幸い、世の中のきのこは僕の思っていたよりもずっと多く、しばらくは美しいものだけをさだめに与えることができる)。さだめは僕に刺繍をやめてほしいという。あたし眠らなくてよくなったから、ずっと刺繍できるからもう人間じゃないからメンタルもおかしくてもうみどりのこと紙切れにしか見れないし、みどりのことは好きだけどあたしおかしいから、みどりは刺繍なんかしなくていいよ、うまくできないけど愛してるからみどりのこと、眠ってほしいんだよ、ちゃんと、とさだめは言う。うるさいと僕はたまにさだめを殴ったりする。さだめの肌は繊維っぽくてがさがさするから、僕の手は少し擦り剥けてかわいいさだめの頬がすこし僕の血で桃色になる。ぼくはさだめの顔が好きだ。右の、左に比べて細すぎる目のことをさだめは嫌だと言うが僕はエロくていいと思う。実際さだめは男からもてるけれど、さだめのひみつを本当のことだとみんな思わずに離れて行く。さだめはかわいそうな、顔のかわいい普通の女の子だ。別にかわいそうだからさだめのことが好きなわけではないし、僕はさだめの顔以外、たとえばやさしくて正直なところなども好きなのだけど、というかさだめがさだめとして居てくれるだけで僕は嬉しくて、でもその嬉しさはさだめにはうまく伝えられないと思うから、僕はときどきすごく悲しい。さだめはきのこの刺繍を食べるようになってから心が晴れたと言う。それまではしょっちゅう酔っ払って刃物を持って徘徊したり、ストッキングで寝ている彼氏(僕ではない)のペニスを絞めたり、自分でもよくわからない恐ろしいことをしでかしていて、それが自分でこわかったのが、きのこの刺繍食に変えざるを得なくなってからどうにも衝動は収まり、ずっと白くて柔らかい変形する、暖かい蛇の腹のような空間を転がっているような安心感だそうだ。僕はそんなさだめのために刺繍をする。綺麗な糸をたくさん持っている。たまにマーマレードを舐めながら、夜を刺繍で満たして行く。マーマレードが刺繍に落ちたらさだめは死ぬから、僕は最善の注意を払う。もしさだめが浮気をしたら、僕は布にマーマレードを染み込ませようと思っている。さだめは僕のことがとても好きで、だから僕とは居たくないという。こわいんだもん、みどりといると昔に戻っちゃうかもしれないし、そもそもあたし人を傷つけるの上手だから、終わってるから、実際みどりの目潰してるし、あたしみどりになんかあったら祈れないよ、きっとあたしのせいじゃんね〜というさだめを抱くとさだめは一旦繊維に戻るから僕はさだめだった繊維にぎゅっと射精をしてさだめをさだめの家の洗濯機で洗って乾かしてさだめの復活を待つ。さだめはきもちよくなるとすぐ繊維になるから、逆にそんなでもないと口でエロいことを言ってても人間のままだから、僕はさだめが恋人でよかった、と心底思う。さだめは正直でかわいい女の子だ。火をつけたら燃えて死ぬけれど、僕だって火をつけたら死ぬし、そんなの関係ない。僕もさだめも心変わりをするかもしれないけれど、さだめは最近復活の最中に僕の首に繊維を伸ばしているから僕は殺されるかもしれないけれど、さだめのために、僕は今夜もマーマレードを落とさないようにきのこの刺繍をするのだと思う。大丈夫。復活途中のさだめは膨らむパンのようで、僕はやっぱりさだめが好きだ、と思う。よく見える右目で、思う。僕はきのこの刺繍がだんだん上手になり、僕はそのうち、僕の身体に、きのこの刺繍をしようと考えている。

最後の発明その発光・わたしはかなしかった

メリークリスマス、という言葉を二十四日に使うべきか二十五日に使うべきかわからないままに二十歳になってしまったわたしはそんな簡単なことも人に聞けないようなかわいい女の子でしかも処女で、二十四日の浮かれた夜を結局「メリークリスマス♡」と誰にも言えないで歩いていた。回数を忘れるくらいに口に出したおかげでばっちり覚えている住所、そこに住む眉毛のかたちがきれいな男の人、その人に会うための服と化粧と靴と鞄をガラスの反射で確認しながら胸の高鳴りを確認する。ああ、ヒロサキユウゴのうちがすぐそこにある!ヒロサキユウゴの最寄りのセブンイレブン!生存への感動で息をするときに「ひゅっ」と実体のある音がする。わたしは凡庸な感じにかわいくそれを自覚しているのでそこそこにモテるのだけれど、特定の恋人はおらずなんとなくふらふらしていて、そんな人生における唯一の渇望というのが、このヒロサキユウゴなのだった。

 

🎄

 

何故ヒロサキユウゴのうちへ向かうのか、というと闇鍋をするためである。クリスマス、闇鍋。これがどの程度ありふれたことなのかは全く分からなかったが、ヒロサキユウゴがそういうからにはそうするしかないのだ。闇鍋。ググった。「闇鍋(やみなべ)とは、それぞれ自分以外には不明な突飛な材料を複数人で持ち寄り、暗中で調理して食べる鍋料理(wikipediaより)」暗中で調理するまでが闇鍋なのか。ねぎは切って持ってきた。だいじょうぶ。手は切りたくない。というかそういう問題ではない死にたくない。というか勘違いでなければわたしたちはふたりきりで闇鍋をする。闇鍋デートである。楽しいのか。ヒロサキユウゴはなにがしたいのだろうか。どんなものを入れたとして、自分が二分の一食べるのである。迷った末に普通の鍋っぽい素材に加えてこんにゃくゼリーを買ってきた。ヒロサキユウゴが喉を詰まらせて死なないといいが。

ヒロサキユウゴの家に到着する。チャイムを押すと彼がのそりと顔を出す。眉毛が格好いい。「おう」と言われる。すこし、顔が熱くなるように思う。なつかしい冬のようなにおいが彼の部屋の匂いだった。

「あがれよ」

「ありがとう」

靴を脱ぐ。冬のにおいが強くなる。冬の、これは灯油の匂いだ。なつかしい。なつかしいね。

「なつかしいね」

「なにが?」

わたしはヒロサキユウゴが好きだ。それはヒロサキユウゴがわたしの思想を操っているから当然と言えば当然のことなのだけれど。

 

🎄

 

ヒロサキユウゴ。彼は無名の天才少年だった。小六でサイコキネシスをあやつり中二でテレパシーの原理を解明した。彼のそれは大いなる科学の結果だったもののいささかオカルトに寄っていたためこのいくつかの発見は明るみにはでなかった。ヒロサキユウゴはおとなしく賢い子供だったため、彼は部屋でゆるゆるとものを浮かせながら、これはあまり人には言わない方がいいものだと感じていた。そしてそもそも、彼は科学者よりも詩や小説を書く大人になりたかった。あるときからヒロサキユウゴがは科学をやめた。決心をした彼はある年のクリスマス、ありとあらゆる発見や発明品をガソリンスタンドの跡地で泣きながら焼いた。かなり寒い冬の夜だった。灯油の匂い、照らされるぬれた横顔。それを見ていたのがわたしだった。彼の発明をよろこび、彼の浮かせたポテトチップスをかじったのがわたしだった。きっかけは簡単で、放課後の教室、小学校の同じクラスだったわたしが彼の机の上にあったぴかぴかするボールを落としたことだった。落下した瞬間ボールは発光、その光に当たったわたしの白い靴下が一瞬で桃色に染色され、忘れものに気づいて戻ってきた彼のおびえるような瞳を見たその瞬間わたしは恋に落ちた。そしてそれはたぶん、ヒロサキユウゴも同様で、その日からわたしは彼の唯一の助手となり、彼のすばらしい発明を見つめる瞳は四つに増えたのだった。

 

🎄

 

ヒロサキユウゴの部屋は狭く、しかし片付いていて、石油ストーブの熱でほどよく暖かかった。

「鍋のなかみ、」

ヒロサキユウゴと再会してからこうしてお互いをしっかりと見る機会はまだ二回目だった。中学校の頃はどちらかといえば華奢で小さな印象だった彼の、色白だけがそのままにまるでクマのように大きな男になっていること。わたしの視線に気づいて彼が途中で言葉を切り、困ったように笑った。

「……ちゃんと持ってきた?」

「うん」

久々の会話でため口がいちいち引っかかる。

「闇っぽいものも?」

「うん、ベースは何鍋なの」

「トマトにした」

「なんで」

「闇っぽいだろ、それにクリスマスだし」

「なにそれ」

彼ひとりでいっぱいになってしまうような小さなキッチン。

「あったかいのとつめたいのどっちがいい?」

「なんのはなし?」

「飲み物」

「あなたの飲むものを一緒に飲む」

「相変わらずくだらない奴だな」

彼が電気ケトルの電源を入れる。少しずつ、水のうめくような声が部屋に充満し始める。

 

🎄

 

信じてほしかった。と思う。それは今でもそうだ。ヒロサキユウゴはだんだんわたしを好きになった。それはわたしも同じだった。なんてことないクラスメイトだったのに、ちょっとしたあんなことがあっただけで、そしてそのあと少しの時間を共有しただけで、とりかえしのつかないことが起こる。わたしも彼もかわいい人間だった。そしてヒロサキユウゴは恐れた。わたしが彼を裏切ること、発見を言いふらして彼の立場を脅かすこと。なにより、わたしが彼のもとからいなくなること。当然だけどそんなことを当時からわかっていたわけじゃない。約十年かけて見つけたのだ。不安定な時期の不安定な不安が原因でなければ、彼がああいったことをした理由は、今でもわからないままだ。

 

🎄

 

「電気消すぞ」

パチン、とスイッチが押され、部屋の中は暗くなる。そとの青色の夜の光だけがわたしたちの鍋を照らしている。ひとしきりの思い出話を終えて、わたしたちは鍋を眺めていた。彼の合図で様々なものが音もなく投入されていく。暗闇にシルエットだけしか見えないそれは気持ちが悪いくらいに食べ物には見えなかった。真っ赤な鍋。トマトジュースの匂いがする。カセットコンロの火、ストーブの火、ちろちろと炎としての輪郭を見せている。液体が鍋に投入される音。一体何なのだろう。わたしたちはいったい何を食べるのだろう。

「二人鍋で食中毒になったら心中みたい」

「べつにお前とは死にたくないよ。そういうの入れたの?」

「入れてない、安全鍋」

彼がくくっと笑う。わたしもえへえへ笑う。鍋、任せてごめんね、と言う。別にいいよ、と彼が言う。

「全部入れたから、蓋するよ」

ぐつぐつと言う音が不意に低くなる。部屋の空気もだんだんと煮詰まり、お互いの呼吸音が無限に反射する。

 

思い出話の中に、発明品のことは出てこなかった。

 

🎄

 

彼が彼の発明品を燃やしたその日、おそらく彼の不安定はピークに達した。わたしにとって彼はすばらしい科学者でなければならないのだと彼は信じていた。だからそうでなくなった途端に、わたしが自分から離れていくと思った。それは恋心の終わりであり、同時に裏切りであった。わたしは想像する。あの夜。帰りのこと。彼は石油ですこしぬれた手でわたしの手首に触れた。ひんやりと湿った彼の瞳を見た。直後、スローモーションのように彼が手に持っていたなにか硬い、たぶん金属工具の類でわたしの頭を殴った。鈍痛の中わたしは目をつむった。殺される、とは不思議と思わなかった。力の抜けたわたしを彼は地面へ寝かせ、少しの荒い呼吸音のあと、左手、親指の爪の間に激痛が走った。血が抜けていくとき特有の冷え、そして何かが挿入されたらしい違和感。彼はわたしの指を持ち上げ、口先へ近づけた。

 

「おれとのことを、忘れてください。

 

おれのことを、ずっと、忘れないでください」

 

彼は確かにそう告げたのだった。

 

🎄

 

左手、親指の爪の裏側。何か薄緑色のものがあり、それはたまに光った。蓄光のストラップのようにそれは安っぽく、美しかった。

「わたしの爪、」

わたしは暗闇の中でほの暗く光りだした爪をヒロサキユウゴの方へ突き出した。

「かわいいでしょう」

目が慣れてきた暗闇の中でヒロサキユウゴが目を細める。

「そうだな」

「知ってるでしょう」

「知ってるよ」

その機械、すなわち彼の最後の発明がどういう仕組みなのかはわからなかった。しかしその言葉は呪いのようにわたしの中でずっとうごめいていた。あの日以降、どのようにだったかはもう覚えていないけれどわたしたちは疎遠になり、別々の高校に進学した。わたしは彼のことを時々思い出した。どうしても忘れられなかった。彼の発明のことは急速に記憶から薄れていった。実をいうと彼の発明の歴史はわたしの記憶から得られたものではなく、当時の日記を暗記しただけの話だ。(日記の存在は彼の誤算だっただろう。)彼と過ごした日々のことを忘れる中で彼自身のことだけはずっと鮮明だった。だから大学の構内でたまたま彼とすれ違ったときに確信をもって気づいた。フルネームで呼んだ。彼はおそれるようにゆっくりと、でもたしかにこちらを振り向いた。何食わぬ顔で驚きと再会の喜びを語り、連絡先を交換して、わたしたちは今、闇鍋をしている。

ヒロサキユウゴが今、わたしの手首をつかんで、ゆっくりと口元に近づける。きっと彼はわたしが彼の呪いを知っていることを知らない。だから彼は安心しきっているだろう。そして怖がっている。自分のしたことに。わたしが今、ここにいることに。彼は口を少し開け、しかし何も言わないままにわたしの指を口に含んだ。呪いは解かれない。きっと彼はずっと、呪いを解かない。

わたしはヒロサキユウゴのことを「本当に」好きで安心した。知ってたよ。あなたが埋め込んだ機械のこと。最後の発明。あなたのことが好き。こんなものがなくても好き。好き。好き。好きだよ。

「マミカ」

ヒロサキユウゴがわたしの名前を呼ぶ。ヒロサキユウゴはわたしのことをきっと一生知ることはないのだろう。一生そばにいるとしても、いつかわたしに飽きてしまう日が来るとしても、わたしの気持ちを知ることは絶対にないのだろう。ヒロサキユウゴ、かわいそうだね。あなたのことを愛しているよ。

「マミカ」

暗闇の中で、ヒロサキユウゴがわたしにキスをする。かたちのよい眉毛。鍋の匂いと彼の唾液の匂いがむせかえるようだ。彼は鍋に何を入れたのだろう。たとえばそれが毒ならわたしは死ぬ。それでもいいと思った。彼がもうこわくなくなるのならそれでもいいと思った。わたしはこのまま処女を失っちゃうんだろうか。仰向けになると窓の外に月が見えた。夜の穴みたい。もしかしたら今までの話はぜんぶ遠い昔誰かに頭を殴られたわたしの妄想で、ヒロサキユウゴに愛はないのかもしれない。たまたま再会した幼馴染とセックスをしようとしているだけなのかもしれない。ありふれた大学生のクリスマスの出来事。そのあとわたしたちは付き合うかもしれないし、ひどいことを言われてなかったことにされるかもしれない。でも好き。それだけはほんとうだ。それならなんかどうでもいいや。顔が離れる。ヒロサキユウゴがくちびるをなめる。たぶん彼はくちびるについたわたしのリップクリームをなめていて、それはすこし甘いのだろう。甘い?と思う。口には出さない。月、いつもより大きいな、と思う。

 

わたしはかなしかった。

たたかう話

あなたにはたどり着けない ただじっと愛するという攻撃もある

(大森琴世)「京大短歌20号」

 

とってもやばい歌だ。愛???

世の中、たどり着けないものばかりだ。当たり前だ。頭のよさや要領、自分の見た目、いろんなものにいやになって、でもなんとか自分とうまくやっていかなければならない。その中で、とくに人に対する感情は、強くて、どうにもならなくてとてもしんどい。

困った。あなたはとってもすごい。わたしの何倍も何倍もたくさんのことを知っていて、それに得意げになったりもしない。本質的なやさしさなんかも持っている。許すのがとても上手だ。感情が上手だ。わたしの感情はどうしようもない。ださい。あなたはわたしと戦っていない。勝てない。対等にはきっとずっと、なれない。みじめな気持ちになる。あなたのことが好きで泣いているのか悔しくて泣いているのかわからない。わたしは泣いているのか。泣いているのをあなたが知ったらきっと困った顔をするのだろうな。勝てない。ぜったいぜったいぜったい勝てない!!!!!

愛するという攻撃、とはなんだろうか。

愛は基本的には自らの中にあるもので、それは正しく使えば他者を傷つけるものではない。たまに、その使い方をまちがえてしまうこともあるけれど、この歌の攻撃、はそのような意味ではないように思う。どうしてもたどり着けないなら、あなたを自分と同じ位置まで落としてしまえばいい。それができるのが愛である、と主体は考えている。あなたはすごい。最高だ。絶対に勝てない。でも、あなたを愛することがあなたにはたらきかけて、あなたがだめになればいい。それはあなたの価値を貶めない。あなたの内面をすこしずつ熟していきたい。わたしはなんにもできないけれど、あなたがわたしなしでは生きていけないようになればいいな。そのとき、愛することはかがやく刃に代わる。脳天に突き刺さるその刃はよく晴れた昼、反射してよくまたたくのだろう。わたしたちはだめになっていこうね。愛にとけた死体、想像上のそれは熟しすぎたスイカのようなにおいがしている。